聖地ベナレス
Q. 先月のこのインタビュー欄でインド放浪について伺った際、「ベナレスにも行った」で終わってしまいました。折角の聖地巡礼ですから、ベナレスでの経験も語って頂きます。
A.昔の日本の呼び方でベナレス。今だとヴァーラーナシー。同じ都市です。今はヴァーラーナシーの方が通常の呼び方でしょうね。ガンジス河のほとりの、ヒンズー教の聖地です。
長々インドに滞在する人だったら、ベナレスにはまず一度は行くでしょう。僕は三回くらい行ったかな。交通の便は良くて、いろいろな行き方があります。
僕は電車でトコトコ行きました。先月お話したように、訪れたきっかけは三島由紀夫の小説「豊饒の海」を読んだから。
ベナレスの街は、ぶらぶら歩いても楽しい観光地です。
聖地だからといっても静寂ではなくて、スピリチュアルな空気感もなくて、普通のインドの埃っぽい賑やかな大都市です。土産物屋はいっぱいあるし、スパイスの匂いがして人や牛がいるやら、宗教っぽさとは無縁ですね。
Q. まず到着すると?
A.駅に到着して「あっ、こいつは外国人旅行者だ」と気付かれると、わあっとリキシャの運転手達が集まって来て、口々に「俺のに乗れ!」と騒ぎながら腕は掴まれるは荷物は掴まれるは、えっらい騒動が展開します。
それで何とか一台のリキシャに乗って、宿に向かうという感じですね。宿はうんと安いものから、うんと立派なものまで沢山あります。それから河での沐浴に向かいます。
Q. ガンジス河はかなり大きいと聞いています。
A.ガンジスは、川幅数百メートルという大河です。
湖とか海の入江とかと錯覚を起こしそうな大きさです。だから観光船が沢山出回っていても、船同士や沐浴している人とぶつからないように気を使う、という必要はありません。
岸の一角に祈りを捧げる沐浴エリアがいくつもあって、男女とも服をきたまま河に入ります。手で水をすくって、頭からかぶる、身体にまわしかける、そして飲む。これが巡礼者達の宗教的な行動。
岸には火葬場があって、いつも火葬の炎が上がっていました。
火葬場といっても建物はありません。路上で薪をくべて火をつけて、布にすっぽりくるまれた死者が焼かれて行くという光景が繰り広げられるだけです。記憶がないから、臭いはそう気にならなかったのな。
日本の火葬のように「すべて灰になりきる」といったレベルまで焼かれるのではなく、ちょっと「残り」があったりするらしいです。火葬が終われば、遺灰も残りものも河に投げ込まれておしまい。
輪廻転生を信じるヒンズー教徒は、生きているうちはガンジスで沐浴し、死んだらガンジスの脇で焼かれ流されるというのが「来世でのより良い生まれ変わり」の約束ですから、ベナレスで焼かれるのはとても喜ばしいのです。
Q. ガンジスの水はぬるぬるしていて相当濁っているそうですが(注・千年以上に渡り、何百万人何千万人の巡礼者が沐浴し、幾多の死骸や灰が投げ込まれて来た)無事に沐浴出来ましたか?
A. 全然平気。僕は水をかぶったし、飲みもしましたよ。お腹をこわすこともありませんでした。
Q. 飲めた?
A.ベナレスには三回くらい行きましたけど、最初の時から飲めました。「ここまでやって来たんだから、飲んじゃえっ」って。「日本人に身体にガンジスの水はやばいよ」くらいの知識はありましたけど(苦笑)、お猪口で一杯くらい飲んじゃった。
味はなかったというか、わからなかったというか・・・・(笑)。
Q. 何かを求め、念じながら飲んだ?
A.そんな立派ではないです。全くの成り行きで飲みました。
確固たる志があったわけでもなく、「折角はるばるベナレスまでやって来たんだから、飲まなきゃもったいないでしょ」みたいな・・・・(爆笑)。
Q. 沐浴を経験して、何か変わりましたか?
A. 変わったと思います。なんだろうなあ・・・・・。ひとつだけではないけれど、一番大きい変化は、「日本はいい国だけど、(自分には)合わないんだなあ、でもいいや」という諦めがついたってところかな。
ずっと「なんで日本の社会に適応出来ないんだろう」と考えて続けていたけれど、「なんで溶け込めないんだろう」「溶け込めない自分はけしからん,
ダメだ」といった思いが吹っ切れ始めるきっかけにはなった。
「合わないものは合わないんだよっ」って。
ベナレスで沐浴を経験しなかったら、今いるこの自分はなかったでしょう。
沐浴が与えてくれたのは諦めだけではなく、開き直り・・・非社会的でも投げやりでもなくて、客観的な受け入れ的な開き直り。
「自分に一歩距離を置く自分」を与えてもらいました。それは訪れるごとに強まって、その後も俯瞰で自分を見る習慣が持てるようになりました。
Q. ベナレスは「何かを与える地」なのでしょうか?
A. きっとそうでしょう。世界各地に聖地と呼ばれるところはいくつもありますが、ベナレスは聖地だと思います。
日本には伊勢神宮とか美輪山とか秩父とか聖地と呼ばれる場所がいろいろあるけれど、日本の聖地は清潔です。
けれどインドの聖地に存在するのは、清潔さとは無縁の煩雑さ。汚いといってもいい。そこに(聖)がある。
ベナレスは朝陽も夕陽も美しかったけれど、そういった視覚的な喜びよりも、雑踏に感じる独特な満足感は確実に得ましたね。
「そんなごった煮的な混沌から、何かが産まれているのだ」、という実感を感じることがなかったら、今こうしている自分はなかったはずです。
Q. もう行く必要はありませんね?
A.行く必要はあります!女房をベナレスに連れて行きたい!何かを感じさせたいのではなく、僕をリセットしてくれた地を案内してあげたい。
女房はごく一般的な感性の持主だから、「三ツ星かそれ以上のホテルがあれば行ってもいい」といったところでしょうね。観光船くらいは何とかなるでしょうけど、ガンジスのどろどろ水は絶対に無理(苦笑)!
2018年12月21日 秋葉原マクトゥーブにて